ラパ・ヌイ国立公園という名前よりイースター島という名前のほうが馴染み深いのではないでしょうか。この島のことを、現地に住む人は「ラパ・ヌイ」、島外の人は「イースター島」と呼んでいます。「イースター島」と呼ぶようになったのは、1772年にオランダ人探検家ロッヘフェーンがこの島を復活祭(イースター)の日に発見したのが由来です。
イースター島には、約900体のモアイと呼ばれる石像が残されています。その大きさは平均で高さ4m、重さ20t、最大で高さ21m、重さ270t(制作途中のモアイ)にもなります。この巨大なモアイをどのように運んだのかについては、冷蔵庫法やそり法、振り子法などが主張されてますが、実際には明らかになっていません。
モアイは10世紀頃から盛んにつくられはじめ、14〜15世紀には最盛期を迎えます。はじめは崇拝の対象だったモアイが、集落同士の権力の誇示のために使用されはじめたのもこの頃からです。モアイ制作が競争化し、モアイが巨大化していきます。そして、この争いがイースター島の悲劇を生むのです。
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より大きなモアイを造るためには多くの人手を必要とします。すると、農作業は後回しになり、農地は荒廃していきます。そして、巨大なモアイを運ぶには多くの木材を必要とし、森林は伐採され、土地の保水力も減っていきます。さらに、人口の急増も重なり、島全体が食糧不足に陥ったのです。 |
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こうなると悪循環の繰り返しです。膨れ上がった人口を支える食糧などありません。ともなれば、残る手段は限られます。集落同士の戦争です。
争いの矛先は相手側のモアイでした。象徴であるモアイを倒せば、相手側の力を失わせることができると信じられていたそうです。2つの集落に分かれて争った後に残ったのは、倒れたモアイと崩壊した自然環境だけでした。最盛期には1万人を超えていたとされる島民も600人程度まで減少してしまいました。
権力の誇示のための自然破壊、人口急増をともなう食糧危機、島民同士の戦争は現代でも起こり得ます。イースター島の歴史は私たちに何を訴えているのでしょう。
世界の縮図イースター島へ?さんはいっ |
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